鎌倉 頼朝物語

(この文章は頼朝の乳母に仕えた精霊が語る形式として、
 2000年秋の『るるぶ鎌倉特集』に掲載されたものです)


源頼朝は地元・鎌倉で大人気!

 はじめまして、私は830年ほど前からこの地、鎌倉に棲んでおります精霊で、生きている時分は源頼朝公の乳母をなさっていた、比企ノ禅尼(ひきのぜんに)さまにお仕えしていた名もなき者でございます。
 それにしても、頼朝さまほどのお方が、世間ではずいぶん不人気なことでございますね。今の世の中、あれほどの人物は何処を探しても見当たらないというのに…。
 これが鎌倉に暮らす者ならば、誰もがその恩恵を受けておりますから、今でもみな『頼朝公』とか『頼朝さま』『頼朝さん』と、決して呼び捨てにはいたしませんが、TVやお芝居などではどれを見ても悪役、何ともひどい扱いです。
 吉良上野介の地元・三州三河(愛知県)では、あまり『忠臣蔵』を上演しないように、鎌倉に暮らす者はみな、義経どのよりも頼朝さまなのです。
 なに? 頼朝さま頼朝さまと耳障りですと…。今の方はまあまあ!
 フーム、では仕方ない。これから先は、源頼朝公の愛称だった『佐どの(すけどの)』とお呼びすることにいたしましょう。

佐どの、伊豆に幽閉される

 私がおぼえている佐どのは、お顔とおつむりはやや大きいかったものの、『平治物語』なる書物に「ナマメイタル小冠者(こかじゃ)」と記されてあるように、いかにも京男といった、いとうつくしげな13才の少年でした。
 この時、佐どのはすでに囚われの身。『平治の乱(1159) 』と呼ばれるいくさで、父上の源義朝さまは平清盛に破れ、佐どのをお連れして東国へ逃げる途中、雪深い関ヶ原の辺で、ハグレてしまったのです。義朝さまは捕わてすぐ殺されましたが、佐どのは池ノ禅尼(いけのぜんに)という清盛の継母に気に入られ、運良く助けられたのでございます。
 その時の佐どのといったら、まあまあ何やら母性本能をくすぐる…ほんとうに助けてあげたくなるような、おとなしげで可愛らしい少年でございました。

京男に東女

 それから何と20年間、佐どのは伊豆で読経の日々を過ごしました。
 奥方となる北条政子さまとの出会いは、かの地、伊豆でした。当時は辺境だった伊豆の地方豪族・北条時政さまの娘だった政子さまは、それはそれは佐どのにゾッコン! 
 俗に『京女に東男』などともうしますが、おふたりの関係は『京男に東女』。まだ、はたちそこそこだった政子さまの入れ込みようといったら、いやはやなんとも、フッフッフッ。
 父の時政さまが諌めようが何だろうが「私の嫁ぎ相手は、佐どのをおいてなりませぬ」と、ひとまわりほども年上だった佐どののモトに、人目もはばからず通いつめ、みごと夫婦の契りをかわしたのでございます。
 天晴れ日本晴れ、政子さま! 御立派でございましたぞよ。

官打ち!大天狗

 ああ、思い出すのもおそろしい!
 佐どのの宿敵とも言える人物が、この後白河法皇という古ダヌキでした。佐どのは法皇を『大天狗』と呼んでおりましたが、朝廷中の勢力争いのなかで生まれ育った人物で、平家の隆盛も滅亡も目のあたりにしながら、その中をかいくぐって生き抜いてきた希代の政略家です。
 一介の伊豆の流人だった佐どのは、法皇の息子・以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ) によって東国の兵をあげ、かつてこの大天狗と結びついていた平家に反旗をひるがえした…といういきさつがありました。
 法皇には『官打ち』と呼ばれた必殺技がありました。滅ぼしたい相手に、その分をはるかに超える位を与えるというやりかたです。これは古来より宮中にある考え方で、ひとたび分を超えた位につくと、その人間はかならず滅びるという思想です。
 単純な手のようですが、これは位を欲しがる田舎者の東国侍に、バツグンの効果がありました。
 それは、そうでございましょう。人間とは自惚れの強いものでございますゆえ、たとえ分不相応の地位についたところで、そのことに誰が気づきましょうや。けれども、ひとたび官打ちにあえば自分はおろか、おのれの組織すらダメにさせること必定なのでございます。嘘だとお思いになりましたら、みなさんのまわりをご覧くださいませ。思い当たることが、ございましょうや。

義経判官ってこんな人?!

 佐どのの異母兄弟・源義経九郎判官どのも、後白河法皇の官打ちにまんまとハマってしまった東国武士のひとりです。
 こんにちTVや芝居で源義経といえば、演ずるのはいつもその時代のトップスターですが、私の記憶では、実際の判官どのは出っ歯の小男で、いつも無頼の徒をしたがえており、お世辞にも上品とはいえないお方でした。
 余談ではございますが、私が思うに弁慶というのは、そんな家来たちのさまざまなお話が後世に伝わり、ひとりの人間に統合されたものでございましょう。ナニブン800年以上も前の話なので記憶は定かではございませんが、判官どのの家来に弁慶にあたる者が、はたしておりましたかどうか…。私は覚えがございません。
 しかしながら、いくさに関して判官どのは、佐どのも一目置くほどの天才だったことは間違いありません。判官どのは、あの『壇の浦の合戦(1185)』にて平家対討(ついとう)の大手柄をあげ、その才能を如何なく発揮したのです。
 でも、この時に京を経た判官どのは、法皇から官位をもらったことで、あの大天狗の言いなりになってしまったのですね。
 まこと、後白河法皇は人をおのが手足のごとく操る恐ろしいお方!

鎌倉時代の君島ファミリー

 しかし、法皇の官打ちも佐どのには通用しませんでした。それどころか、官位をもらったことで判官どのは、佐どのの逆鱗をかってしまったのです。ふだんは冷静な佐どのが、まあ怒りをあらわにして…。私は、まだその時のようすを覚えておりまする…。
「義経の大バカ者めが、大天狗のカラ手形などをホイホイ有り難がりおって! 東国武士は朝廷をわるく言うクセに、官位をもらうとすぐに有頂天になる。ワシが指令系統をひとつにまとめようと、これほどまでに苦労してるのもしらず、身内がこれでは他のものにシメシがつかん。よいか、義経を鎌倉に入れること。まかりならんぞ」
 壇の浦の戦績を誉められるだろうと、意気揚々としていた判官どのは、それどころか湘南の腰越で足留めをくらい、結局鎌倉には入れてもらえませんでした。(その時、判官どのが書いたとされる嘆願書『腰越状』の下書が、今でも腰越の満福寺に残っておりまする)。
 この4年後、奥州・平泉で、かくまっていた藤原泰衡(ふじわらのやすひら)の手にかかり、判官どのは非業の死をとげたのでございます。もちろん、これは佐どのが泰衡にカマをかけたからで…後年の判官びいきと、佐どのの不人気は、きっとここからきているのでございますね。

鎌倉を歩くと、侍の考えがわかる

 鎌倉も私が生きていた頃とは、すっかりようすは変わりましたが、佐どのがお造りになった町並みの面影は、まだ残っているようですね。佐どのが何を考えて幕府を鎌倉においたのか、今でもこの町を歩くと、いくつかそのことが見出せるのでございます。敗北が死につながるだけでなく、一族の根絶やしを意味した時代、防衛をするということに細心の注意がなされました。今では想像もつかないことでございますけれど。 
 鎌倉を歩いてみればわかることですが、この町はわかりやすいようで、脇道や裏道に入るとすぐに袋小路に追い込まれやすくなってます。地の利のない侵入者にとっては、ハッキリとわかる大きな道を通るしかなく、それはそれは大勢の武将が非業の死を遂げました。城というものがなかった鎌倉は、山を砦として、町全体が要塞の機能をなしていたのですね。
 鎌倉はご存じのように三方を山、一方を海に囲まれた要害の地です。この地形が、攻めにくく守りに強いことはもちろんですが、それだけではございません。鎌倉の先にある三浦半島は伊豆半島と房総半島に挟まれております。佐どのはこの地形のことをよくわかっていて、海づたい、陸づたいに3半島に勢力を伸ばしていた、三浦氏や北条氏、土肥氏、大庭氏、千葉氏、上総氏などの地方豪族たちをたいらげ、味方につけていったのです。
 三浦半島には、現在でも横須賀に米軍基地が置かれているという、軍事拠点になっており、佐どのの着眼が今でも通用することを証明しております。
 しかし鎌倉はいくさが多かっただけに、私のように今でも成仏できずにいる者が多いようでございます。私のあるじだった比企の一族は、妙本寺のあたりで皆殺しにあいました遺恨が消えず、800年経った今でも時々甲冑をしたまま人前に現れるみたいです。
 いやはや、皆さま。鎌倉においでになったときは、くれぐれもバチあたりなことは慎んでいただきたいものでございますね。


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