鎌倉不倫

「見なよ、だれもがアーチストという肩書きを得られるのさ。モダンアートでは職人の技術が、即興とアイデアに交換できるようになっているんだよ」
 夏彦は真魚(まお)の肩にそっと手をのせて語りかけた。休日は観光客でごったがえす鎌倉も、鶴岡八幡宮の中にある神奈川県立近代美術館は人もまばらで、二人だけの時間を過すには格好の場所だった。

 夏彦はヨーセフ・ボイスの『内相する人のいる最後の空間』と題された、一見すると解体されたビルディングのような現代美術作品を前に、咄々と真魚に語りかけた。
(お金はないけど、アーチストだから仕方ないよね)
 真魚は機械的にうなずきながら、夏彦の顔を覗き込んだ。
「どういう意味なの、それ。ちょっとむずかしいわね」
「つまり技術からの開放だな。既成概念からの解放こそがアートの本質なんだよ」
 真魚はまた機械的にうなずいた。だが、そう…そんなことは彼女にとってどうでもよいことだった。
(好みだから…)
 夏彦とつきあいはじめて約半年。それまではモダンアートといえば、意味不明の物体という程度の認識だった。本当のことをいうと、今でも真魚はモダンアートなんか理解できなかったし、そんなに興味もなかった。言うまでもなく彼女が好きなのは、夏彦の作品ではなく彼自身なのだ。

 31才、長身でスリム。長い髪を後ろに束ね、憂いをふくんだ夏彦の風貌は、人々が抱いている芸術家のイメージを絵に描いたような面持ちであり、真魚はその姿がたまらなく気に入っている。
 だが、真魚は勘のいい女性だ。夏彦の凡庸さには気がついている。
 アートに縁遠い人々にとっては、その人や作品の価値を見分けるのは、比較的むずかしい。だが、時々彼との間に感じる奇妙な退屈さは、真魚にそのことを何となしに気づかせていた。
 意外に思えるかもしれないが、アーティストの中には凡庸な人も少なくない。夏彦のセリフは、モダンアートの先達たちが言ったことの踏襲に過ぎなかったし、彼の作品にしても同様だった。
 そのうえ夏彦が密会場所に選んだのは、あの稲村ケ崎の鎌倉プリンスホテル。そう、あの日本経済新聞に連載されていたベストセラー『失楽園』の密会場所である。もちろん、お金を払うのはいつも真魚の方だ。
(この人って、あまりモノを考えない人なのかもね…)
 真魚は彼との退屈な瞬間に、そう思うことがあった。あまり男運が良いとは言えなかった37年間の人生経験は、彼女の頭の裏側にそんなシグナルを送っていたのである。
(顔がいいから、まっいっか)
 そう、見た目の好みというのは何とも抗いがたいものがある。 夏彦がアーチストとして本物なのかニセモノなのか、今の真魚にとってはどうでも良いことだったのである。

 二人はそのまま美術館を出ると、流鏑馬(やぶさめ)の馬場となる参道を通り、東鳥居からニ階堂のほうへ歩きはじめた。荏柄天神社から武家屋敷のような竹垣の道を抜けて、ゆっくりゆっくり歩いていく。やがて鎌倉宮を通り抜け、永福寺(ようふくじ)跡のしげみにさしかかったところで、かすかなキンモクセイの香りが草いきれとともに運ばれてきた。
(冗談じゃないわよ。何よ、今さら)
「え? どうしたの、真魚ちゃん?」
 突然立ち止まった真魚の不思議な様子に、夏彦は機嫌をうかがうように彼女の顔を覗き込んだ。
 がさがさ風が吹き抜けると、さらにキンモクセイの香りが真魚の鼻腔を刺激した。それは夫の益男がいつもつけている、グリーン系のコロンを思わせたのだ。
「なんでもないよ」
 真魚は夏彦の腕をぎゅっとつかむと、不安げな色を浮かべる夏彦の瞳を見つめた。

 実際の能力にかかわらず景気の良い時の男は、それなりに魅力的に見えるものである。別に真魚はお金だけが目的で益男と結婚したわけではなかった。
 バブル絶頂の時期、真魚は中堅どころの土建業・丸投建設の跡取りだった益男と結婚した。益男の方が15才年上だったが、みな玉の輿とほめそやした。誰もが羨む結婚だった。
 益男は切れ物のニ代目と持ち上げられ、結婚相手にはそれなりにバリバリ働くところを見せていた。また、それが頼もしく見えたことも事実だった。
 だが、それもひとえに風の前の塵に同じ。
 結婚して間もなく…まだまだ景気の良い頃、益男の浮気癖はそれはそれは見境いがないものだった。気丈な真魚は何度となく夫を追い詰めて問いただし、誓約書まで書かせたが、それもまったく効果はなかった。金があるということは好きなことが何でもできるということである。
 月に数100万円、娘くらいの年の女性たち相手にお金を貢ぐことができた時代だったのだ。
 だが、それもバブル崩壊と同時にできなくなった。
 それから、益男は妙にすりよってくるようになった。真魚にとって、これは浮気を公然としていた時より、彼女の怒りを大きくつのらせた。
(金がなくなって、ほかの女に貢げなくなったら、あたしのトコに戻ってくんのかよ。ナメんじゃねーぞ、コノヤロー!)

 瑞泉寺も石段を上りきると、放し飼いになっている尾長鶏がコッコと迎えてくれる。
 岩に穴があいただけの瑞泉寺庭園、夏彦はしきりに感心して声をあげる。
「800年前のモダンアートだよ、真魚ちゃん! これは、穴ではなく別空間の岩が食い込んでいるという考え方さ。すごいコンセプトじゃないか、まったく」
 瑞泉寺庭園は鎌倉石をくりぬいた、この土地では『やぐら』と呼ばれる穴を大小3つほど見ることができる。この穴は、実は穴ではないとい考え方から成り立っているというのだ。一枚の鎌倉石に異空間の岩…つまり見えない岩が食い込むことによって、ちょうどマイナス状態になっていると見立てているというのである。
 実際には、この瑞泉寺庭園を作庭をした禅僧・夢窓国師は、奇をてらうことを好まなかった人なので、そんなアバンギャルドな考えがあったかどうかは、はなはだ疑問であるのだが…。
「それはね、真魚ちゃん。さながらベルギーのシュールレアリスト、ルネ・マグリットが描いたパイプの作品を思い起こさせるね。その絵にはこう記されているのさ。『これはパイプではない』ってね…」
 手入れのゆきとどいた庭園からは、ふたたび草いきれの香りがただよってくる。
 草いきれとかすかなキンモクセイらしい香り…益男がいつもつけているグリーン系のコロンの香りがただよう。
「貴様ら…」
 そこには本物の益男が鬼のような形相をして、脇の地蔵堂の前に仁王立ちしていた。
「お、俺をナメやがって、貴様ら…」
 益男と初対面のハズの夏彦は、はじめは呆然とワケがわからぬようすだったが、やがて状況を察知したらしく、蒼白になって歯をカチカチと鳴らした。
「いや、私はナメてるとか、そんなつもりじゃあははは! あの…」
「おまえが間男か」
 益男は背はさほど高くはなかったが、現在の体重は105kg前後を行き来しているという巨漢である。ねじ伏せるように襟をつかまえ、太い腕で夏彦の痩身を引き寄せた。年は夏彦の方が若いが、昔テコンドーでならした益男の方がどう見ても腕力がありそうだ。
「おまえが間男かあ!」
「くくくくっ、苦しい…。たたたっ、助けて…」
「何がコンセプトだ、何が『パイプではない』だ。ふふ、ふざけるな、この野郎!」
 夏彦はゴホゴホと声をあげ苦しんだが、益男の目にはギラギラと粗野な怒りがうかび、その手をゆるめようとはしなかった。
 突然のできごとに唖然として真魚は、一瞬声もだせなかったが、すぐに元の気丈な表情を取り戻した。そして逆に彼女の脳裏には、フツフツと過去の益男の素行がよみがえってきたのだ。 …今の状態をすべて忘れて。
(こいつ、自分が前にやったことはもう精算されたと思ってんだ…。どーせ、今も自分だって似たようなことやってるクセにさ!)
 真魚はキッと眉を寄せると、 スーッと深呼吸をして大声を張り上げた。
「きゃー! だ、誰か、誰か助けて! こ、この人ストーカーなんです。何日も前から私たちを! 誰か、誰か警察を呼んでちょうだい!」
 以前浮気を問いつめられた時の自分みたいに、 真魚もシュンとなるだろうと思っていた益男は、妻の意外な逆襲に慌てふためいた。サッと集まる周囲の視線を『違う、違う』というようにさえぎると、 巨体に似合わない、カン高い裏返った声を張り上げた。
「おおおおおおお、おい! ままま真魚。なななんだ、いいい言うに事欠いて、そのいい言い草は何だ! 浮気しておきながら、オレのことストーカーはないだろ。ストーカーは!」
「みなさーん、助けてくださーい! 警察、警察よ。元の夫がストーカーになって、私たちをツケまわしてるんです! 見て下さい、今の夫にこんなひどい暴力を!」
 真魚は咳き込む夏彦を抱き起こしながら、あたりいっぱい響く大声で叫んでみせた。
 観光客でいっぱいの瑞泉寺は、遠巻きの野次馬ですぐに黒山の人だかりとなった。
 寺のお坊さんたちは怒り心頭。すぐに真魚たちを追い出そうとしたが、誰が呼んだのか、警察までやってくる大騒ぎになった。
 だがそんな中、真魚は涼しい顔をして、黒いフェラガモからきれいに折りたたんだ半透明の紙を取りだし、すうっと益男の前に差し出した。
「ああ、そうだ。元の夫というと正確じゃないわね。これからモト夫になる人かしら。私ね、いつかこんなことがあるんじゃないかと思って、いつもこれ持ち歩いてたんだぜ。ホラ、ここにあんたがサインして判を押せば、あとは私が役所に持っていくだけよ。簡単でしょ?」
 益男と夏彦は騒ぎと人だかりに加え、真魚の突然の行動にガタガタ震えはじめた。
「ま真魚! ぬ盗人猛々しいとは、こ、このことだぞ! なんだ自分のしたことタナに上げて…」
 声を張り上げる益男をしり目に、真魚は落ち着いた口調でさらに続けた。
「それはお互いさまでしょ。そんなことより、アンタ。丸投建設ってツブれそうなんでしょ。いいの? 仕事も取らずにこんなことしててさ。こんなことメインバンクに知られたら、連中、きっとアンタが探偵雇うお金もないから、自分で尾行してたなんて思うんじゃない?」
「ま真魚…」
「別れろよ、コノヤロー」

 やがて警察もあきれ顔で、「寺の中で起こった事件は、なるべく境内の中でおさめてくれ」といって去っていった。
 また、お坊さんたちは怒る気もしなくなったらしく、3人に「お地蔵さまでも拝んでから帰りなされ」と言って庫裡の中に戻っていった。
 ここのお地蔵さまは『どこもく地蔵』といって、こんな話がある。貧しい老婆が生活の困窮を、このお地蔵さまに訴えたところ、「苦しい苦しいと言うでないわい。苦しいことは、どこもくどこもく」と答えたというのだ。
「好きだの別れるだの四の五のうるさいこと言うでないわ。男と女はどこでも同じじゃ。どこもくどこもく」

 結局、真魚と益男はよくあるドロ試合の末、半年後に離婚が成立した。なぜか慰謝料は益男が払うことになり、相当な高額をずっと分割で支払うことになった。
 その翌年に真魚と夏彦は結婚。凡庸な夏彦は真魚にいいように舵取りされるが、それがかえって良かったらしく、成功しはじめ、ニューヨーク在住のアーティストとして活躍中。二人の間には、真魚にとって初産ながら女の子2人と男の子1人の子宝に恵まれた。
 益男はその後、さらに若い3番目の奥さんをもらうが、現在離婚の調停中である。


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