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堪能ルーヴル

半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス

1,600円(税別)


 はじめにまどか出版の梶山さんから
「ルーブル美術館の本を書いてみませんか?」かと言われたのは、
2000年の春頃だったでしょうか。
それは最初の著作「おちゃめなイタリア人!」の中で、
画家が案内するイタリア美術という一章から
お話が来たものでした。
 以前から「絵描きの立場からアートを案内してみたい」
そう思っていたところに、
それは願ってもないことでしたが、
いざ原稿を起こす段になると、けっこう大変。

2002年8月にルーヴルで取材を行い、
ようやく、10月頃から原稿をまとめて書きためていきました。

できあがったモノがどんなものか…。
それは読者のみなさまにご判断いただくことにいたしましょう。


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本文紹介1

はじめはモナ・リザから

 さあ、みなさん! 
何はともあれ、モナ・リザ(ジョコンダ)を見ずしてルーブル美術館は語れません。モナ・リザを所有する栄誉が、
ルーブルを世界一の美術館と言わしめる由縁だと言っても過言ではないでしょう。
まず最初に、この世界一有名な芸術作品を見に行くことにいたしましょう。
 あらら、午前9時の開館と同時に入ったというのに、もう大変な人だかりですな。
まあまあ、どこの国の人だかわかりませんが、
フラッシュをバチャバチャ焚いてマナーのわるいことわるいこと! 
日本人のみなさんは、どうか真似しないでくださいね。

 ほら、見てください。やはり本物は違うでしょう? 
近くで見ると意外に大きくって(77×53cm)、
バックの風景は画集より青みがだいぶ強いですよね。
 え? モナ・リザばかり、何でそんな有名なんだって? 
この絵のどんなところが、そんなに素晴らしいのか説明してくれですって?
 ふうむ。素朴な疑問なんでしょうけれど、実に難しいことを聞きますね。
 たしかにモナ・リザほど謎に包まれていて、エピソードの多い絵はありません。
モデルはマントヴァ侯妃イザベラ・デステだとか、
フィレンツェの名士フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リサだとか、
諸説紛々ですが、その実際は誰もわかりません。

 またモナ・リザについて調べていくと、
資料によってそのエピソードに相当な食い違いがあることがわかります。
たとえば、もともとこの絵は左右約7cmづつ大きかったそうです。
(ラファエロの模写したスケッチからの推測)。
それが、ある資料ではレオナルド自身が切り取ったと記してあり、
別の記述ではナポレオンが自分の寝室に掛けるために
削ってしまったと書いてあります。
 モナ・リザがなぜフランスのルーブル美術館にあるのかも謎に包まれています。
たしかにレオナルドはフランソワ1世の招きでフランスのアンボワーズに赴き、
その地で没しています。
レオナルドは終生モナ・リザを手放さなかったといいますから、
死の床の傍らにもこの絵があったのでしょう。
しかし、 レオナルドの死後、モナ・リザの足取りを知るものは誰もいないのです。


私生児レオナルド

 モナ・リザと同様、レオナルド・ダ・ヴィンチ自身も謎の人です。
しかし、その生涯は「万能の天才」とは裏腹な屈折した一面がありました。
どうやら、そのことにモナ・リザの「謎の微笑み」を解く鍵があるようです。
ちょっと、レオナルドの生涯をひもといてみましょう。

 1452年4月15日。レオナルドはヴィンチ村の地主セル・ピエロと、
その土地の農婦カテリーナの間に私生児として生まれました。
そのことが、この天才に終生コンプレックスを残していたようです。
 16歳まで祖父のアントニオに育てられたレオナルドは、
おじいちゃんの死をきっかけに、
ヴィンチ村から花の都フィレンツェにある、父セル・ピエロの家に移り住みます。
しかし、義母と腹違いの兄弟たちと一緒に生活するというのは、
あまり居心地の良いものではなかったようです。
 その上、セル・ピエロは商人として成功した人の例にもれず、
それはそれは誇らしげに何人もの愛人を囲っており、
内向的だったレオナルドは、この父にあまり心を開きませんでした。
 一方、農婦だった母親のカテリーナについては、
後年、家政婦としてレオナルドと一緒に生活していました。
彼は母を「カテリーナ」と呼んでいたそうです。
でも、マザコンが大多数というイタリアのお国がら・・・
本当は「マンマ」と呼びたかったのかもしれません。
モナ・リザのモデルに母・カテリーナ説があるというのも、
そんな理由があるのでしょう。

 さて、父セル・ピエロも人の子です。
複雑なレオナルドの立場に責任を感じていたのか、
それなりの支援はしていたようです。
万能の天才と称されたレオナルドですが、
それは言葉を返せば気が多いということ。
天才は移り気で金使いが荒かったらしく、
何をやっても長続きしない息子の心配をしたセル・ピエロは、
たまたま近所に住んでいた売れっ子画家ヴェロッキオのもとに
息子を連れていきました。

「こいつは何をやっても覚えがいいんだが、まるで長続きせんのです。
絵だけは好きなようですが、見てやってくれますか? 
ちょっとはモノになるといいんですが」

 少年レオナルドの描いた怪物をみたセル・ピエロが、
それを本物と間違えて叫び声を上げたエピソードは有名ですが、
この手の話のマニュアル通り、
彼がすぐに師を超えてしまったのは言うまでもありません。
もっとも師を超えたと言っても、芸術の才能と経済力は別の話。
ヴェロッキオはおおらかな人だったのか、
独立する二十歳半ばまで、ずっと経済的にレオナルドの面倒を見ていたそうです。



レオナルドは聖母の細胞まで描いた?

 この辺で、廊下を戻ってレオナルドの他の作品を見ておきましょう。
 移り気の天才は完成させた作品がきわめて少なく、
現存しているものは、両手で数えられるくらいのもの。
でも、ここルーブル美術館は何とモナ・リザを含めて
5点もの作品を収蔵しているのです。

 特に「岩窟の聖母」「聖アンナと聖母子と小羊」は異様なほどの密度ですね。
葉っぱ1枚1枚、髪の毛 1本1本の間が
ミクロンの単位でトーンが変化していくのがわかるでしょう? 
それは、さながら彼女たちや草木を構成している
何十兆という細胞ひとつひとつを描こうとしているようです。
 絵の中には必ずといって良いほど、画家のメッセージが込められています。
小説で「行間を読む」という行為があるように、
絵を見る時でも、そこに描かれていないものを感じることは大切なことです。

「岩窟の聖母」をよく眺めてください。
優美な聖母子作品の中にダークサイドがあり、
怪物が潜んでいるのが感じられますでしょうか? 
 そう、レオナルド・ダ・ヴィンチも心に怪物を飼っていて、
それが時々ギョロリと目をむきます。
 一度でも死体解剖に立ち会った人間ならば、その異臭の凄まじさに驚くはず。
そして、人間の内臓は素人が見ただけでは、
どれが肝臓でどれが横隔膜なのか区別は難しいものです。
自らを「経験の弟子」と語り、
生涯30体以上もの死体をサバいたレオナルドだからこそ、
あのように精緻きわまりない人体解剖のデッサンを生み出せたのでしょう。それはもちろん、学究的な意味もあったのでしょうが、
内臓を見るのが好きだったこともあるようです。
 また、レオナルドの家では異臭のする虫や蛇が飼われていたとか、
弟子の前で部屋いっぱいに羊の腸を膨らませるパフォーマンスを見せたとか……
ちょっとブキミな一面も持っていたようです。

 彼は24歳の時に、
当時禁止されていたホモセクシャルの容疑で2度も告訴されています。
証拠不十分で、すぐに放免されていますが、
彼は町でブ男をみかけるとしばしば後をつけまわしていたといいますから、
きっと変わった趣味だったんでしょうね。
まあ、美少年も好きだったらしくサライ(アラビア語で悪魔)と呼んだ
パンク少年をペットにしていたというから、けっこう守備範囲は広かったのかもね。

(つづく)

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