堪能ルーヴル 2


本文紹介2

あの「フランダースの犬」のルーベンス!

 では、みなさま……こちらの部屋、
「ギャラリー・メディシス」にお入りください。
 このルーブル美術館の白眉ともいえるのが、
この部屋に展示されている
ルーベンスの「マリー・ド・メディシスの生涯」の連作24点です。

「ほら…見てごらん、パトラッシュ。あんなに見たかったルーベンスの絵だよ」 

 日本でルーベンスといえば、
アニメ 『フランダースの犬』のラストシーン、
クリスマスの夜にネロと愛犬パトラッシュが最後に見る祭壇画として、
みなさんご存じではないでしょうか。
(ちなみにフランダースというのは、
現在のフランス北端部からベルギー西部にかけての地方の英語読みで、
フランス語ではフランドル、オランダ語ではフランデレンと呼びます)。
 そんなルーベンスも美術全集には必ず名を連ねる巨匠ですが、
日本人で「ルーベンスに心酔している」という人は意外に少ないかもしれません。
 私はルーベンスという人が、
日本人の感覚と遠いところにいる画家であると同時に、
西洋絵画を読み解く鍵はルーベンスにあるとも思っています。
 この24点の大作に描かれている裸体を見てください。
17世紀の時代にこの豊満そのもののボディ! 
短絡的な言い方ですが、
これはやはり肉を主食にした人種でないと描けない絵ですね。
 この24点をルーベンスはたったの4年で仕上げています。
しかも外交官を兼業していた激務の間にです。
もちろん、弟子に分業させて描いたということはありますが、それにしてもスゴイ! 

金持ちケンカせず?

 ルーベンスは幸福と名声に彩られた生涯を送りながら、
残した作品が後世にも評価されているという稀有の画家です。
 温厚な人格者で、商才にも長けて莫大な富を築いたこの画家には、
こんなエピソードがあります。
 ロンドンの錬金術師ブレンデルなる人物が、
ルーベンスの富を狙ってやってきた時のこと。
彼は自分の錬金術がいかに効果があるかを、
こと細かに説明し、
もしルーベンスがそれに必要な設備の研究所と道具を揃えてくれたら、
全利益の半額で自分の秘術のすべてを提供しようと持ちかけました。
 このペテン師の言うことを辛抱強く聞いていたルーベンスは、
やがて男の話がひと区切りついたところで、こう言ったとか。

「あなたの好意に何とお礼を申し上げてよいか、言葉も見当たりません。
しかし、あなたの訪問は20年ほど遅かったようです。
私はその間に絵筆の力で、その賢者の石とやらを見つけてしまったのですから」
 それにしても、お金持ちの余裕もあるのでしょうが、
これはなかなかのバランス感覚! 
なるほど、こういう人なら 人生そうそう、つまずかないかもしれません。



ルーベンスの順調な人生

 ペーター・パウロ・ルーベンスは、
ベルギー・アントワープの法律家の家に6番目の息子として生を受けました。
早くに父を失いますが、母の意志でラテン語学校で教育を受け、
その後ラレング伯未亡人という人の小姓をつとめ、
宮廷での礼儀作法や古典の知識などを身につけます。
 やがて3人の画家のもとで修業生活を経てから、
23歳になった時、芸術先進国としてヨーロッパ中の画家の憧れだったイタリア…
ヴェネチア行きの切符を手に入れます。
 この時からルーベンスの輝かしい快進撃がはじまります。
旅先で何と、あのマントヴァ候ゴンザーガ の知遇を得て、
一気に宮廷画家に出世したのです。ヴィンツェレッツォ・デ・ゴンザーガ候は、
ルーベンスの才能を見抜き、太っ腹にも画家の思うままにイタリアを旅させます。
 前章でも紹介したヴェネチア派の画家たち
…ヴェロネーゼ、ティツィアーノ、ティントレット…
それからカラヴァッジョなどの作品群に感銘を受けたルーベンスは、
フィレンツェ、ジェノヴァ、パルマ、ローマなどの各地に滞在し、
その間に名声を高めていきます。
 8年のイタリア生活のあと、
アントワープに帰ってきたルーベンスを待っていたものは、
アルブレヒト大公の宮廷画家の地位と多忙な生活でした。
 名声が高まったルーベンスのもとには、
フランス、イギリス、スペインなどヨーロッパ中の外交先から、
山のような受注が殺到しました。


ルーベンス工房作品

 生涯に油彩画1,500点。
これはもちろん、
いくらルーベンスでも到底すべてを一人でこなしたわけではありません。
 画家が独力で絵を描くという常識は、比較的近代になってからのこと。
ルーベンスが生きていた17世紀には、画家が工房を持ち、
弟子に分担させるのが当たり前だったのです。
 現在で言えば、それは宮崎駿作品がスタジオジブリで制作されるように…
さいとうたかをが、アシスタントに仕事を分担させ、
仕上げにゴルゴ13の顔を描くといった感覚に近いものでした。
 ルーベンス工房の場合、師匠のルーベンスは下絵を描いたあと、
途中までは弟子たちに任せ、
仕上げの筆だけ自分で入れるという方法をとっていたそうです。
 人を使う作業というのは、
どうしても芸術的感覚とは別の管理能力を必要とします。
画家であるばかりでなく、
フランドル(現在のベルギー)の外交官としても手腕をふるっていたルーベンスは、そのあたりの力量はバツグンだったのでしょう。
とかくアーチストは他人と自分の境界線がひけないものですが、
きっとクールだったんでしょうな。

(つづく)

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