中学生にもわかる仏教2
阿弥陀如来座像
第一章 “日常”について考える 【禅と空】
それが理解できればおおよその仏教の大筋はわかったようなもの――
海外に禅を紹介したことで知られる
宗教家・鈴木大拙(すずきだいせつ)はそう言っている。
般若心経においてトは「空」をそう言葉にしてあらわしている。
一切は空。宇宙も神も自分自身ですらも実在することはない――
それが色即是空の一般的な解釈だというのだ。
だが、読者のみなさんはその説明で、「空」の意味が理解できるだろうか?
それは、この世が「空」であるとするなら、
私たちが住んでいる世界は、夢かまぼろし……
あるいはまやかしの中にあるという意味なのだろうか?
一度生をうけ滅せぬ者の有るべきか」
『夢まぼろし』という言葉が使われてるが、
それはあくまで『ごとくなり』である。
私たちが生きている世界というのは、夢でもまぼろしでもない、
抓(つね)れば痛い現実の世界なのだ。
舌で味わうことも、鼻で嗅ぐことも、体で感じることもできる、
私たちの世界が確かにあるというのに!
それなのに、どうして私たちの世界は実在しないと言うのか?
まったくもって、これは矛盾である。
仏教というのはそんな非常識なことを平気で言う教えなのだ。
だが繰り返す。話はそこからはじめてみたい。
なぜなら、たいてい辻褄の合わぬことには理由がある。
そこには、私たちが気がつかなかった理由が隠れているからこそ、
辻褄が合わなくなるのだ。
なぜならたいてい辻褄の合わぬことには理由がある。
そこには私たちの気づかなかった理由があるからこそ、辻褄が合わなくなるのだ。
科学の世界などは、そんな世の事象の矛盾を解決することで発展してきた。
仏教というものが、見えて、聞こえて、
触れられて、味わえて、嗅ぐこともでき、
感じることもできる現実の世界を、
なぜ「空」だと説いたのかを。
仏さまの自分さがし 十牛図
仏教が生まれたインドにおいて、牛は神聖視され大切に動物される動物だ。
そんな牛を探し、牛を得て、牛を慣らしていくを描くことで、
本来の自分を探す旅を十のプロセスで表した禅画が
十牛図だといわれている。
ただ、ここでいう「自分探しの旅」とは
「自分は本当はこんな才能を持っている」とか、
「本当の私はこんな人間なんだ」といった
『青い鳥』を探し求める旅とは少々違う。
そういった意味の「自分探し」は、
六番目、騎牛帰家(きぎゅうきか)あたりのプロセスで、
すでに成されてしまう。
大切なのはそのあとの段階なのだ。
それには、自分の中にある仏性(ぶっしょう)を
探すという意味があると思う。
特に肝心なのは最後の段階、入廛垂手(にってんすいしゅ)である。
町中に出て人々のために尽くすという、
禅にしてはわかりやすい教えだ。
その言葉は人によっては深い意味を持つだろうし、
あるいはうわべだけの意味に終わってしまうこともあるだろう。
だが、ともかくもそれがないと宗教というのは
意味のないものになってしまうに違いない。
本来、自己というのも独立して在るものではなく、
宇宙にあるつながりのひとつである。
そういった意味で、仏性とは自己と宇宙の間にまたがって存在する――
筆者には、この十牛図がそんな風に思えるのだ。
牛を探しにいく。精進、そして自分探しの第一歩である。
牛の足跡を見つける。
これが、自分探しの手がかりをつかむ一歩になる。
牛の姿をほんの少し見る。
自分にそなわっていた仏性を垣間見る。
本来の自分がまだものになっていない状態である。
ただ、この後も牛と自分が一体になるわけではない。
まだまだ修業が必要な状態である。
自分自身を発見し、あなた自身もそのことを知る。
無我の状態にある。
水の青さ、山の緑をありのままに見る。
十、入廛垂手 (にってんすいしゅ)
本来の仏性を見出した段階というべきか。
前のページへ
旧html
ご意見などのメールはこちらへどうぞ